百合鴎、鴫、凍鶴
2019-01-23



さらに、鴫のお仲間ということで、西行の有名な歌が思い浮かんだので、できた折り紙作品を見ながら、古歌をもじって「心なき身にもあはれは知られけり都鳥たつ秋の夕ぐれ」と洒落たのだが、呟いてみて、ふと思ったことがあった。元の歌「心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ」の「たつ」は、「経つ(発つ)」、つまり、飛びたってゆくさまとするのが通説で、わたしもそう思ってきたが、鳥がじっと佇立していることの描写としてもよいのではないか、と。

思えば、西行の「心なき」と並べられる「三夕(さんせき)の歌」(『新古今和歌集』の秋の夕暮れを詠んだ三名歌)のひとつ、寂蓮の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕ぐれ」の「まき立つ」も常緑樹が立っているということで、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」もボロ家が立(建)っているということだ。「三夕」は後世の言なので、この三首に「秋の夕ぐれ」以上の共通性があるとも思えないが、羽音をのこして飛びたってゆくのではなく、凍ったようにただ立っている鳥という風情からもまた、あはれは知られるだろう。

とは言え、鴫や千鳥は泥をつついて餌をあさるので、せわしない動きをする。桟橋や浅瀬で佇む鴎のように、じっとはしておらず、長い脚で歩きまわる印象が強い。寂と騒の対照などと考えると、飛んでいったほうが劇的でもある。また、鴫は英語でsnipeである。「狙撃」と同じで、鴫は獲物を「狙撃」するのか、されるのかというと、狙撃されるほうで、鴫を狩る猟から、狙撃の意味でのsnipeが使われるようになったという。西行の時代にはむろん銃はないわけだが、snipeの語源を知ると、物音に驚いて飛び立つさまのほうが、鴫らしい気もする。

話がずれてゆくが、動かない鳥といえば、最近ではハシビロコウが有名だ。そして、俳句には「凍鶴」(いてづる)という季語がある。この言葉を奇想として使ったと思われる「折り紙関連句」も最近見つけて、これもかなり謎なので、その話も記そう。

折鶴のごとくに葱の凍てたるよ 加倉井秋を

わたしは、下向きの矢印が折鶴に見えてしまうことすらある折鶴好きだが、葱が折鶴に見えたことはない。尖った葱の葉先が折れ曲がっていると、折鶴の頭を連想しなくもないが、どうもピンと来ない。ということで、これは、数段の連想を経ての比喩なのではないかと考えた。凍鶴、すなわち厳しい冬景色の中にいる鶴の、典型的な図像のひとつは、一本の脚で立ち、もう一本の脚と長い首を翼の間に隠し、身じろぎもしないさまである。それは、一本の棒の上に綿毛がついたようなかたちだ。これは、葱の花、葱坊主に相似している。つまり、加倉井さんの句案は、葱坊主∽凍鶴→と鶴→の葉∽折鶴の頭という連想からきたのではないか、と想像したのだ。

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