すこしづつ、折り紙に関係なくもない話をいくつか
2019-09-28


◆飛田給
先週末、京王線飛田給駅近辺は、ラグビーのワールドカップで大にぎわいであった。ファンが盛り上がっているのにはなんの文句もなく、毎日新聞のサポーターの写真に、わたしの「飾り兜」をかぶっているひとが写っていて、意外なところで自分の作品を見ることがあるものだと、不思議な気分にもなった。開会式では折り紙をモデルにしたらしきCGもあった。
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ただ、開会式の日、周辺での黒塗りのハイヤーやタクシーの振る舞いには、会場近くの住民として閉口した。交差点で停め、住宅街の路地に長時間停める。そして、警察の取り締まりは甘い。電車で来ればいいのに。こうしたイベントでの、首から関係者の名札を下げたスーツ姿のひとたちというのは、スポーツの持つ明るさや開放感とは対照的である。

◆兎の話
最近読んでいた一般向けの翻訳科学書に「拙著」とあって、違和感があった。著者は自信満々の科学者で、原文に拙著に相当する謙譲表現があるはずもない。自分でも使ったことがあるが、なくなったほうがよい言葉だろう。対象が本なので、「愚妻」や「豚児」よりはるかにましだが、謙譲というより卑下といったほうが相応しい。

拙著と同様の言葉に兎園冊(とえんさつ)という言葉があって、「兎園冊ですが、おたのしみください」なんてのは、通じるはずもないが、使ってみたい気もする。

兎園:前漢、梁の孝王が造った庭園の名。兎園冊:(梁の孝王の蔵書が俚語で書いてあったからいう)(1)俗語で書かれた卑近な冊子。俗書。(2)自分の著書の謙譲語。(『広辞苑5版』)

この言葉を知ったのは、江戸のUFOとも言われる「うつろ船」のことが書かれた文献が、『兎園小説』というものだったからだ。馬琴が主催した奇談を披露する会を兎園会と称し、その話を集めた本を『兎園小説』という。馬琴による「与太話」という韜晦なのだろう。使ってみたくなるのは、そのニュアンスが、卑下というより韜晦で、さらに、兎が遊ぶ庭園というのどかな風景が思い浮かぶからだろう。
ちなみに、うつろ舟に関しては、加門正一さんの『「うつろ舟」ミステリー』という本が詳しい。

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兎園とうつろ船といえば、うつろ舟伝説に題をとった小説のある澁澤龍彦さんが、晩年、置き去りにされていた兎を拾って家で飼っていた、という話がある。『うつろ舟』を書いたころのことである。澁澤龍子さんの『澁澤龍彦との日々』によると、以下のような経緯だという。

ある日、玄関のチャイムが鳴り、「宅急便です」という声に扉をあけると、ルビーのような赤い眼ををした掌にのるくらいの白い子兎が置き去りにされていました。


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