66年前の三月十日、東京大空襲の日、23歳の医学生の日記である。
十日(土) 晴
(略)
電車の中では三人の中年の男が、火傷にただれた頬をひきゆがめて、昨夜の体験を叫ぶように話していた。
(略)
「〓つまり、何でも運ですなあ。……」
と、一人がいった。みな肯いて、何ともいえないさびしい微笑を浮かべた。
運、この漠然とした言葉が、今ほど民衆にとって、深い、凄い、恐ろしい、虚無的な〓そして変な明るさを持って浮かび上がった時代はないであろう。東京に住む人間たちの生死は、ただ「運」という柱をめぐって動いているのだ。
水道橋駅では、大群衆が並んで切符を求めていた。みな罹災者だそうだ、罹災者だけしか切符を売らないそうだ。
「おい、新宿に帰れないじゃないか」
二人(引用注:著者と友人)は苦笑いしてそこに佇んだ。
焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、
「ねえ……また、きっといいこともあるよ……」
と、呟いたのが聞こえた。
自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れすぎた。
数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっと、いいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。……この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間賛歌」であった。
『戦中派不戦日記』(山田風太郎)
昨日、この部分が読み返したくなり、書棚の奥から上記書を探しだした。
わたしの身の回りも、すこしだけ非日常化したが、昼は仕事で、夜は多面体モデルをつくったり本を読んだりという、以前と同じ平穏な日々をすごしている。
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